あの女(ひと)の器

セクシュアリティとか、ジェンダーとか

「子どもの性別違和(GID)はその後、異性愛になる」件

みなさん、こんばんわ。ひばりちゃんです。
不精なものでブログをすごく休んでいました。
ところで三橋大先生とTwitterでこんな話になりました。

「子どもの性別違和(GID)はその後、異性愛になる」ここ数年よく聞く話なのですが、例えば針間先生のブログには次のようなエントリーがあります。

世間一般的には「性同一性障害者は、全員が物心ついたころから性別違和があって、それが大人になるまでずっと変わらずに続く」という誤解があり、子どもの性同一性障害も、必ず大人になってもずっと性同一性障害が続く、という風に思われがち…

ジョン・マネーの唱えた、「人のジェンダーアイデンティティは臨界期(3歳頃)までに決定し、それを過ぎれば変化しない」という学説が、専門家の間でも広く信じられてきた…

結論から言うと、子どもの性同一性障害は大人の性同一性障害に必ずなるわけではない…

有名なのはイギリスのグリーンによる研究です。かれは4歳から12歳(平均9歳)の男児の性同一性障害44名を追跡調査(追跡調査時の平均年齢19歳)しました。すると、その中で、性別適合手術を真剣に考えていたのはたったの1名でした。ただ、性的空想においては、33名(75%)に同性愛ないしはバイセクシュアルの傾向が認められました。

またズッカーの追跡調査によれば、思春期前の45人の性同一性障害者の中で、14%が思春期になっても性転換を希望しました。コーヘン・ケティニスの報告では、初診時に12歳前だった129人の小児の中で、74人がすでに12歳を超えていて、その74人中、17人が強い性別違和を持ち性別適合手術を望んでいます(女性8人、男性9人)。

これらの研究から推測されることを平たく言えば、「幼稚園や小学校低学年で性同一性障害と診断されても、大人になって性別適合手術を望むものは少ない。ただ、中学校に入って性同一性障害と診断されるものはそのまま性別適合手術を望むものは増えてくる」ということではないでしょうか。

レズビアンであることをカムアウトした大阪府議の尾辻かな子さんは、「カミングアウト―自分らしさを見つける旅」という本を出していますが、そこに記されている彼女の子供時代はまさに「子どもの性同一性障害」と診断すべきエピソードで満ちています。しかし、彼女は大人になってからは、レズビアンではありますが、男性になりたいという気持ちはなく、女性として生きています。

この針間先生の記事は2007年のものです。実は「子どもの性別違和(GID)はその後、異性愛になる」とは書いてないのですが、内容的には、その説のベースになる論考です。針間先生とはあまり話したことはありませんが、おそらく現在(2014年10月末)でも大筋の考えは変わらないと思います。

幼少時から性別違和を持つ者がこの記事を読むと抵抗感があるかもしれません。実際、私は抵抗感を感じますが、よく読むとそうした人の性別違和が否定されているのではなく、つまるところ「幼少から性別違和を持つ者の全てが性転換するわけではない」ということなんですね(決して「子どものGIDは同性愛になる」という説ではない)。
確かに私も、レズビアンの人が「自分の性自認は男だ」と語ったり、尾辻さんではありませんが、その思春期の体験談を「まるで性同一性障害のようだな…」と感じることはままあるのです。
また「トランスジェンダー」というカテゴリーの範疇に入る人々の多様なあり方を考えると、決して「性別違和」を持つ者だけが性転換する…わけでもないのですね。
幼少時から性別違和を持つ者もいれば、ある時期から性別違和を感じ始めたり、あるいは「性別違和」というわけではなく、自己表現や生き方の追及、探究から典型的な性別のパターンを越えてしまう者もいるし、経済的理由、社会的弱者の生存戦略として性別を変えて生きて行くことを選択的に選んだ人たちもいるし、それ自体が共同体の文化、制度、雇用システムだったりとか、もう本当に様々だと言えます。
そうしたトランスジェンダーの人々全てを「性別違和」や「性同一性障害」あるいは「心の性/身体の性」という概念で捉えることは相当無理があるでしょう。
そのうえ、人は成長と共に変わっていくので、幼少時に「性別違和」を持っていたとしても、発達の過程で自己解決したり、解消することも十分にあり得ることでしょう。

ですから、私自身、幼少時から性別違和を持っていましたが、そうである者の全てが大人になっても違和を持ち続け、生活様式における男女の差異を逆転させる「性転換」にまで至るかというと、そうではないだろうと感じます。
むしろ、幼少時から性別違和を持ち続け、結果的に性転換に至る人というのはトランスジェンダーの中でも少数派かもしれない」というのが私の実感です。
性別違和、性同一性障害といったとき、多くの人がすぐに「異性装」「性転換」そして「性転換手術」を連想してしまう現在の状況にはちょっと異常を感じています。
あと、昨今のLGBTの言説、典型例は「20人に一人いる」といったものや、北大の

など何らかのデータの裏付けによるプレゼンテーションの影響も大きいと見ています。
根拠はありませんが、この問題にさして根拠が必要とも思えないのですね。単純に「そんなにいるわけがない」ですし、仮に5万人の「性別違和」が存在するとして、その人たちすべてに「性転換」が必要か?というと常識的に考えて「必要なわけない」と、そう言う他ないのではないでしょうか。
トランスジェンダー」と呼ばれる人たちの領域は非常に広いし、人口は多いと考えられますが、その中でも「性別違和」や「性同一性障害」のタイプに該当し、結果的に「性転換」にまで至る人たちは意外と「少ない」のではないか。そのトランスジェンダーの中でも非常に稀なタイプの人たちにフォーカスし、それを拡大解釈して来たのが、日本のGIDの10年間だったんじゃないか?と私は考えています。
皆さんはどう考えるでしょうか。

とは言え「子どもの強い性別違和は、かなりの確率で同性愛に落ち着く」という言説には、少し気になるところがあります。
「性別違和」が自己解決するとしても、その先にある恋愛が本人にとって「同性愛」なのか、「異性愛」なのかは判らないのですよね。なぜそれを「同性愛」と規定出来るのかが不思議なのです。「性自認と性指向性の問題がすり替わる」ような違和感がありますね。
「性別違和」や「性転換」への願望が解消されても、ある男性にとって女性を好きになることは、ジェンダーアイデンティティから言って、「同性愛」かもしれないし「異性愛」かもしれません。あるいは逆に「性別違和」から解放されたかに見える男性が別の男性と交際している様子はゲイかもしれませんが、当人のアイデンティティ的にはジェンダーの変容を伴っていないだけで女性と男性の関係、つまり「異性愛」なのかもしれません。

例えば次のような場合においてもそうです。

「そもそもどうして性同一性障害なのに、結婚して子どもがいるのだ?」という疑問の声もあり、それに対して「性別違和はあったが、当時は性同一性障害という言葉もなく、仕方なく結婚した」「結婚して子どもができれば、普通の男性(あるいは女性)になれると思ったがだめだった」という具合に当事者が反論することもあります。しかし、医学的事実としては、特にさほどの性別違和がなく結婚し、子どもができた人が、その後強い性別違和を持ち、身体的社会的に性別変更を望むというのは十分ありうることなのです。

もし性自認」と「性指向性」を別々に、個別に、バラバラに、自立した、関連性のない、「ただの組み合わせなのだ」と考えることが出来るのなら、「性自認」が何であっても、誰が好きになるかといった「性指向性」は「性転換」への必要性や欲求を測量する基準にはならないでしょう。
こうした発想が人々の標準になれば、おそらく「性別違和はあったが、当時は性同一性障害という言葉もなく、仕方なく結婚した」「結婚して子どもができれば、普通の男性(あるいは女性)になれると思ったがだめだった」などという反論を当事者は選ばなくて済みますね。また「性別違和がなく結婚し、子どもができた人」が突如「性転換したい」と言い出しても、誰もおかしいとは思わなくなるでしょう。

あともうひとつ。幼少時から「性別違和」を持つ人は実際、周囲の者から「同性愛」とよく間違われるので、それがトラウマになるというか、非常に嫌な思いをするわけです。
幼少時から性別違和を持つ者にしてみると「同性愛になる」という言説はかなり「脅威的」であり「圧迫感」があります。「性別違和浄化運動」のように聞こえますね。また、針間先生の記事にも触れていますが、「同性愛」だとすることで話を聞いてもらえなくなったり、「放っとけば治る」というような態度を大人が取り易いのです。

「性別違和」と「同性愛」が思春期のグレーゾーンに成立する人もいます。例えばレズビアンの人たちのエピソードの多くはそのような思春期の機微に満ちています。

しかし、ある人々にとっては「性別違和」と「同性愛」は徹底的に全くの別物です。そういう人にとっては「同性愛」や「LGBT」は自分のアイデンティティを脅かすものでしかありません。「同性愛」と言われることで自分の存在を消去されそうになった体験を持っている人もいることは知っておいて欲しいところです。

 

個人的には「子どもの強い性別違和は、かなりの確率で同性愛に落ち着く」のではなくて「性別違和だと考えられるものの多くは、実はいわゆる同性愛だった」というのが妥当な言い方なのではないかと思います。
「性別違和が同性愛になる」のではなくて「それは同性愛だった」
結果論でしかそれは言えないというか、原因が観測されているのではなく、常に結果が観測されているのだ、ということです。

こんなことを考える度に、私は「性別違和」や「性自認」というタームである時期から性別を変えて生きる人々を特定することをもうそろそろ止めたらいいのに…と思います。

どんな人々がいつそうなるかは判らないが、そういう人々がいる。そこでひとつの目安になるのは、本人がジェンダーを変容させる」という目的意識を持つかどうかであって、そのタイミングやキッカケや内容は「いつでもいいし、何でもいい」のではないかと思います。

子どもの「性別違和」は、それが深刻である場合、個人的には早期発見、医療的介入は必要と思いますが、そういう子どもは例として少ないのでしょう。見極めも難しそうですね。教育機関における子どもの「性別違和」への取り組みは、特別な子を大勢の子の中からピックアップして治す…というものではなく、性別違和なのか同性愛なのか、どちらにせよ将来においてあるリスクが想定される一群としてざっくりケアの対象にするのが望ましいと思います。
同性愛になるのだとしても、放っておけばいいとも思えませんしね。

そうそう。それに加えて、LGBTの数の論理を前にだすプレゼンテーションも少し見直されたらいいなと思います。数が少なければいいとも思えませんが、日本は北米のような権利獲得、拡大路線のLGBTというより、ピアサポート福祉系のLGBTです。また同性愛は脱病理化されていますが、性同一性障害、性別違和は病理化されているという「捻じれ」があります。それに見合った提案、PRが他にあるのではないかと思いますね。